No.306『小欲を捨て、大欲に立つ』

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その昔、ひとりの老人が、一休和尚を訪ねて、祈とうを頼みました。
「私は80歳になりますが、あと20年長生きしたいのです」
一休は答えて言いました。
「たった20年でよいのですか。何と欲の少ない人だ」
老人は驚いて、言い直しました。
「いえ、できればあと40年ほど長く生きたいと思います」
「これは、ますます欲の少ない人だ」
「では、あと100年」

ここで一休は諭しました。
「50年や100年長生きしても、同じことだ。そんな小さな欲ではなく、なぜ永遠に生きようという大きな欲をもたないのだ。御仏は、永遠に生きる道を説いているのだ」
花は散っても、また次の年には咲きます。川の水は流れ去っても、流れは永遠に続きます。
人の肉体は滅びても、また自然に返り、新しい生命の源となります。魂は仏となって、永遠に生き続けるのです。
老人は、一休の言葉によって目覚め、余生をやすらかに生きたそうです。

人間は、欲望によって苦しみます。
欲望は、大きいほど浅ましく、卑しいものとされています。
しかし、仏法では、「小欲を捨て、大欲に立つ」ことを説いているのです。
ちっぽけな欲望を捨て、それらすべてを超越するような大きな欲をもてば、煩悩にわずらわされることもなく、かえって謙虚になれるというのです。

他人をうらやんだり、憎んだりするのは、「自分のもの」と「他人のもの」を分けて考えているからです。
「自分の幸せ」よりも「他人の幸せ」のほうが大きく見える。
「自分の心」が「他人の心」によって傷つけられた。
どれだけ必死に「自分のもの」だけを大切に守り、増やそうとしても、それはしょせん「小欲」にすぎません。

人は誰でも幸せになりたいと願うものであり、それは悪いことではないのですが、他人と自分を比較して落ち込んでしまう人は、「自分だけが幸せになりたい」と思うから苦しいのです。
「他人のもの」も「自分のもの」だと思って大切に扱えば、他人の幸せまでも自分の幸せと感じることができるようになるのです。

「他人のもの」を「自分のもの」にすると言っても、何かを奪い取るわけではありません。我が物顔で振る舞うというのでもありません。
「奪う」という発想は、「他人のもの」と「自分のもの」を分けているからこそ起こるのです。
他人と自分の垣根を取り払い、すべてを共有すると考えればよいのです。

ある大学の教授が、次のようなエピソードを本に載せていました。
教授がキャンパスを歩いていると、ベンチに学生が座っており、その前にゴミが落ちていました。
教授は学生に言いました。
「目の前にゴミが落ちているんだから、拾ったらどうだ」
学生は、まったく心外だという顔で、こう答えました。
「僕が捨てたんじゃありません」
「そんなことは分かっている。だが、ここは君の大学だろう」

せっかく大学に在籍しているのに、自分を「よそ者」であるかのように考えるのは、まったくもったいないことです。
大学の校舎も、庭も、「自分のもの」だと思えば、愛着がわき、きれいに使おうと思えるのではないでしょうか。
「私は○○大学の学生である」という誇りがあれば、自然にそう思えるようになれるはずなのです。

車の窓から平気でタバコの吸い殻を投げ捨てる人でも、まさか自分の部屋の中で同じことはしないでしょう。
「自分の車の中、自分の部屋の中さえきれいになればいい」という考え方は、とても貧しく、ちっぽけな欲です。
「この町、この国、地球すべてが自分のもの」と大きな欲を抱けば、どれだけ心は豊かになるでしょう。
「自分さえよければいい」というのは、かえって自分を窮屈にするのです。

誰でも、自分の親や子供には、幸せになってほしいと願うはずです。
他人も自分の家族だと思えば、その幸せを自分の幸せとして感じることができます。
赤の他人に対してなら腹の立つことでも、自分の家族だと思えば許すことができます。
自分ひとりの幸せは、どれだけ大きくしても「ひとり分の幸せ」でしかありませんが、10人の幸せを自分の幸せのように感じることができる人は、10倍幸せになれるのです。

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