No.206『禁止されたとき、意志が試される』

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こころが休まる本

ある落語家は、弟子をとるときの条件として、「まず、本気で断ってみる」のだと語っていました。
落語家というのは、ある程度売れなければ、とても食べていけない厳しい世界です。「有名になりたいから」などという安直な動機で志願してくる人をほいほいと受け入れていては、将来ある若者の貴重な人生を狂わせることにもなりかねません。
断られて簡単に引き下がるような人は、どうせ長続きしないのです。
その落語家が弟子をとるのは、「何度断っても、しつこく食い下がってきて、こちらが音を上げたとき」だけなのだそうです。

人は勝手なもので、ある行動を他人から禁止されれば、意地でもやろうとするのに、「しなさい」と命令されれば、逆にやりたがらないものです。
貧しくて学校に通えない子供の多い国では、子供たちは「学校に行きたい」と切望し、ノートも鉛筆もないのに、土に字を書いてでも勉学に励もうとします。
一方、誰もが学校に通う経済的余裕があり、教育を受けることが義務づけられている日本では、学校というものは、ほとんどの子供にとっては「いやいや行かされるところ」であり、勉学に対する意欲は、貧しい国には遠く及ばないでしょう。

現在、若者の多くは「やりたいことが見つからない」「何のために生きているのか判らない」と嘆いていますが、その大きな理由のひとつは、「何をやっても自由」だからではないでしょうか。
身分による差別もなく、飢えや戦争で死ぬ心配もなく、乗り越えるべき壁がないから、かえって懸命に生きる理由も見つからない、という皮肉な状況にあるのです。

しかし、だからと言って、平和な世の中が悪いというわけではありません。何をするのも自由な社会というのは、本来すばらしいものです。自由は、空気と同じようなもので、失ってはじめてその大切さに気づくのでしょう。
仕事にやりがいがもてず、「何のためにこの仕事をしているのか判らない」と嘆いている人は、まず、「少なくとも自分は、この仕事をする権利が与えられている」と視点を変えてみましょう。
迷うことができるのは、幸せなことです。自分に選択権が与えられているからこそ、迷うことができるのですから。昔の人は、迷うことすら許されなかったのです。

朝目覚めて、「ああ、きょうも仕事に行かなければいけないのか」と、ゆううつな気分になったときは、「では、もし働くことを誰かに禁止されたら」と考えてみるのも、気分転換のひとつの方法です。
いっさい働くことを禁止されてしまったら、収入をえられず、食べるものも住むところもなくなり、また、毎日することがなく、退屈で仕方がなくなるでしょう。生きがいを失い、社会から取り残されているような不安を覚えるかもしれません。
自分が生きるために、自分の意志で働いているのです。そう考えれば、意欲もわいてくるのではないでしょうか。

恋人との付き合いがマンネリ化してきて、つまらなく思えてきたとき。
「では、その恋人と付き合うことを誰かに禁止されたら」と考えてみましょう。
家に引きこもっている人は、誰かに「絶対にこの部屋から出るな」と命令されたら、自分はどう対抗するかを考えてみましょう。
他人から禁止されれば、それに逆らいたくなるものです。

禁止されたことをやろうとすれば、「なぜ、自分はそうしたいのか」という理由を明らかにしなければなりません。
具体的な理由が見つからなくても、「自分がそうしたいから」という理由だけでもよいのです。
自分の気持ちを深く見つめ直すことによって、自分の意志、権利意識というものに目覚めてきます。

同じ「走る」という行動でも、マラソン競技に参加して走るのと、凶器をもった人に追いかけられて逃げるのとでは、大きな違いがあります。
これまで「他人に追いかけられて仕方なく走っている」と思っていた人が、「いや、自分でマラソン競技に参加して走っているのだ」と意識を変えれば、人生の充実度ははるかに大きくなります。
走りたいと思わない人は、走らなくてもよいのです。ゆっくり景色をながめながら歩くのも、また、じっと座って思案にふけるのも、個人の自由です。

結婚や職業の選択において、親に反対されることもあるかもしれません。
しかし、そういうときは、「自分の意志が試されているのだ」と思えばよいのです。
結婚も仕事も、「親の反対を押し切ってでも、やりたい」と思えるほどの熱意がなければ、長続きはしません。
禁止されなくても、「もし禁止されてでもやりたいと思うか」と自分自身に問うてみるのは、意義のあることでしょう。
自分の意志で、自分の責任で生きる人生にこそ、生きがいがあるのです。

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