No.069『自分が楽しめば、相手も楽しい』

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以前、新聞か何かのコラムで、次のようなことが書かれていました。
「父親の『家族サービス』という言葉がよく使われるが、このサービスという言い方は、恩着せがましいのではないか」
たしかに、サービスという言葉には、「義務でもないのに、特別にやってあげている」という印象があります。
父親が子供たちと遊ぶのは、当たり前のことであって、サービスでも何でもありません。親子で親交を深め、共通の思い出をつくるのは、子供のためだけではなく、親自身のためでもあるのです。

「そんなにわがままを言う子とは、遊んであげないよ」
「そうやってだだをこねるから、お前は連れてきたくなかったんだ」
子供に何かをしてあげるとき、いちいち「本当はやりたくないのに、お前のためにしてやっているんだ」という態度を示す親がいます。
そういう親に育てられた子供は、他人と行動をともにしているとき、心から楽しむことができません。自分の存在がまわりの人にとって迷惑なのだという誤った観念をもってしまい、つねに「相手は、いやいや付き合ってくれているのではないか」ということを気にかけてしまいます。

友人や恋人と一緒にいても、「どうせ相手は、私のことが好きではないのだ」と自分を卑下してしまう人は、「たまたま自分の親が恩着せがましい人間だっただけであって、世の中のほとんどの人は、そうではないのだ」ということを認識しなければなりません。
あなたと付き合ってくれている人は、まともな人であれば、おそらく「自分の意志で」そうしているのです。

「他人は、私のことが好きではないのではないか」と思うのは、いじらしく相手の気持ちを気遣っているようでいて、実は、自分が傷つくことだけを怖れている、利己的な考え方なのです。
そういう人は、他人のありのままの人間性を認めず、感謝する気持ちもなく、ただ「自分をどう扱ってくれるか」という受け身で打算的な目でしか他人を見ていません。相手への愛情は、「相手も私を認めてくれるかぎりにおいて」という条件つきでしかないのです。
自分が相手を尊重していないから、相手もそうに違いないと勘繰ってしまうのです。

「どうせ私なんか」とひがんで心を閉ざす人は、心の奥では、「私と付き合いたいのなら、もっと私を尊重し、気を遣いなさい」と要求し、他人を試しています。
他人を憎む気持ちと、他人の気を引きたいという欲求とのはざまで、自己矛盾に苦しんでいるのです。

ある本に、そういう人の心理についての的確な表現を見つけました。
「道を歩いていて、野良犬がついてきたとする。ただついてくるだけなら何とも思わないが、その犬を蹴って追い払おうとしても、なおついてくるなら、本当に慕われているのだということが判って、情がわいてくる」

あなたに悪意がなければ、理由もなく他人から嫌われることはありません。しかし、「他人を試さなければ気がすまない人」と付き合うのは面倒だから避けたいと考える人はたくさんいるでしょう。
野良犬を蹴る喩えのように、わざと他人を拒絶して試そうとする人は、まさにそういう態度こそが嫌われるのです。犬を蹴れば、ほとんどの犬は逃げるか、または怒ることでしょう。

人は、不安から逃れるために生きているのではありません。楽しむために生きているのです。
他人を喜ばせるもっともよい方法は、自分が相手との付き合いを楽しむことです。
それだけで充分なのです。
「相手も楽しむこと」まで要求するのは、ごう慢というものです。

自分の幸せを第一に考えるのは、利己的なことではありません。むしろ、自分の幸せを実感できない人こそ、「もっと私を尊重してほしい」「私の気持ちを判ってほしい」と一方的に要求するばかりで、他人からは迷惑がられるのです。
美しい花を咲かせるためには、まずしっかりと根を張らなければなりません。
「自分が幸せである」という土台がなければ、他人を喜ばせることもできないのです。

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